起こり・変遷

 

花筐地区概史:今立町誌、男大迹部志より


○花筐(かきょう)地区は、「花筐小学校」校区内の越前市粟田部(あわたべ)町・西樫尾(にしかしお)町・千原(ちはら)町からなります。

 

○粟田部町は、福井県のほぼ中央に位置する三里山の東南部のふもとに位置し、約1500年前の第26代継体天皇ゆかりと地として「蓬莱祀」(2月)や「迹王の餅」(10月)などの伝統行事が残るなど長い歴史に彩られた町です。 
  また福井県内で最も古い公園と言われる花筐(かきょう)公園は、桜やもみじで有名な所で、特に樹齢約800年と言われる天然記念物「薄墨桜」があり、毎年多くの方々が訪れ自然の中で桜などを楽しんでいます。
 この粟田部も草分けの時代には12戸があったのみとされていまが、時代を経て近隣地域(旧今立町の岡本・南中山・服間地区はもとより池田町も含む)の中心として栄え、江戸時代の元文5年(1740年)には333戸を数える地域の中核的存在(在郷町)でした。
  その後も文化6年(1809年)には439戸。 安政6年(1859年)には567戸。 明治7年(1874年)には600戸。 明治28年(1895年)には651戸と増加してきました。
 粟田部町は一つの大字で1号(姉ケ町)から106号(扇ケ平)までの小字があります。 この中には、近年の宅地開発で新しい町となった千原町も含まれています。
 また、江戸時代末期には本町、佐山など23の町名がありましたが、最近では大きな区割(7区)りとなり昔の町名が消えつつあります。


○西樫尾も継体天皇とのつながりがあったところで、男大迹王子の宮地の用水であったと伝えられる「殿の池」、振媛と伯父麻和加介命)を祀る麻気神社(荒樫神社の境内社)などがあります。 同地区は、江戸時代には粟田部と同じ福井藩領でしたが、一時期北新庄村に属し、昭和29年(1954年)に粟田部に編入されました。

 

○  現在(2015年)の花筐地区は、約1200戸(約3650人)の地区となっています。
 このように花筐地区は、継体天皇と関わりがあるとされる史跡・地名、伝統行事が色濃く残っている地域です。

 

☆「花筐」の読み方
 ○「花」は、訓読みで「はな」、音読みで「か」と読みます。
 ○「筐」は、訓読みで「かご、かたみ」、音読みで「きょう」と読みます。
  したがって、「花筐」を訓読みすると「はなかご・はなかたみ⇒はながたみ」、音読みすると「かきょう」となります。


 ○室町時代前期の能役者・能作者世阿弥(ぜあみ:1363~1443年?)で有名な能の曲に「花筐(はながたみ)」があります。